ご縁起

古代

 当山は、人皇第38代天智天皇の時代(668~71)、修験道の祖と仰がれる役の行者(えんのぎょうじゃ)がこの地を訪れ、四海道路を開くべく祈願してお堂が建てられました。

 このお堂に不動明王を安置して、悪鬼退散・万民豊楽を祈り、済珠密院(さいしゅみついん)最上寺(さいじょうじ)と称しました。

 背後の山は、「普く和らぎが与えられますように」と願いが込められて「普和山(ふわざん)」と名付け、その後この山が、役の行者を「神変大菩薩(じんぺんだいぼさつ)」と崇拝する行者達による修行の場となり発展していきました。

 古くより大変な賑わいを見せていましたが、また時代の変遷と共に栄枯盛衰もありました。

鎌倉期

 第82代後鳥羽天皇の時代(1185~97)、京仏師の雲慶(うんけい)が諸国巡礼の際にこの地へ立寄り、十一面観世音菩薩の尊像を謹刻し、併せて天照明神・春日明神の霊体を両脇士として勧請し、別殿を造立しました。

 鎌倉長谷寺の観音様の映しともいわれ、霊験あらたかとも称されて寺門愈々興隆し、参詣者絶えず振わいました。ところが、弘治の変(1556)に際し、堂宇は一朝にして悉く焼失してしまい、住時の盛観は見るよしもなく、かろうじて僅かに御本尊不動明王と十一面観世音菩薩だけがその災禍を免れました。

 最上寺中興の祖と伝わる伝順僧都(でんじゅんそうず)は、その焦土と化した境内に小屋を立てて両尊像を仮安置しました。

 その後、伝順僧都とその弟子僧、そして地元郷民の協力によって堂宇が再建され、再び賑わいを取り戻していきました。
 

江戸期から昭和初期

 その後、法灯は連綿として代を重ね、江戸期綱吉公の時代には十一面観音菩薩の両脇に春日明神(かすがみょうじん)と雨宝童子(うほうどうじ)が新たに造立され、その容貌は現在に受け継がれています。

 しかしながら、再三の火災や天災にも遭い、時代の流れによる紆余曲折や窮迫の時もありました。

 殊に明治期の神仏分離では寺領が没収され、御本尊をはじめとする寺宝の護持にも困る有り様でありました。このため、堂宇の老朽は甚だしく、懸命に護持興降に腐心しなければなりませんでした。

 しかし、本尊大日大聖不動明王や観世音菩薩の御利益に帰依する報恩謝得の檀信徒は多く、昭和期に入り中興第19世・義嶽和尚(ぎがくわじょう)は、檀信徒と共に一致協力して鋭意寺門の興降に専心しました。

現代

  ついに昭和24年(1949)の春、戦後の物資が乏しい中、別殿観音堂を普和山の山腹に建立し、寺門復興に勤しみました。ところが、戦後における寺領であった農地開放は寺院経営に困難をもたらしてしまい、復興事業が滞ってしまいました。

 第22世・義昭和尚(ぎしょうわじょう)は昭和43年(1968年)に法灯を継承すると、檀信徒の教化活動に励む傍ら、改めて寺門復興を願い奔走し、ついに昭和47年(1972年)の春に本堂の再建を成し遂げて今日の様相を呈するようになりました。

 これもひとえに、ご本尊さまのご加護はもとより、当山檀家皆さんの支えと、縁あって訪れていただいたご信徒皆様との相互の供養功徳力の成就の賜物であり、深く感謝申し上げる次第であります。

普回向(ふえこう)

願わくば 此の功徳を以て 普く一切に及ぼし
我らと衆生と 皆共に 仏道を成せんことを      合 掌
 

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